通称・恍惚のえやみぐさ ① 幕前

 

幕前

 

 

 

 河川敷の土手沿いの桜並木を右手にして女がふらふらと歩いていた。

 

女は夜に溶けて消えてしまいそうな全身黒尽くめのヒラヒラとした洋服を身にまとっている。俗にいうゴシックロリータの服ではあるが、一般のそれよりかは露出度が高く、胸も上半分ほど出てしまっている。

 

透き通るほど白い肌と黒い服のコントラストは、無機質で、そのあまりにも華奢な体躯と相まってどこか死を連想させた。

 

眠気を誘うような甘い香りがふらふらと歩く立花姫芽(たちばなひめ)の鼻孔を擽った。

 

花の香りに似ているが、それが何の花なのかは、いつも思い出せなかった。しかし、香りのおかけで向かう先が定まり、足取りは力強くなった。

 

姫芽は憎いと思いながらも、どうしてもこの香りを嫌いになれなかった。発生元が、唾棄すべきものだとはわかっていたが、それでもこの香りを嗅ぐと何もかもどうでもよくなってしまう。その結果、何度も何度も失敗し、生きることすらどうでもよくなってしまったはずなのに抗うことはできなかった。

 

 ただ、今は少し違う。

 

 小さく笑って振り返った。その微笑は小悪魔のようだ。

 

 姫芽の少し後ろに細身の男が歩いていた。

 

 男は姫芽の表情を確認すると、力なく笑顔を作った。

 

「姫芽、少し休まない?」

 

 その問いかけに対し、微笑みながら首を振る。

 

 男はため息と共に頷いた。

 

 姫芽は男が受容を確認すると、甘い香りを頼りに夜道をさらに歩いた。

 

 重なるような足音で、男がついてくるのがわかると、もう振り向かなかった。徐々に香りが強くなる。脳に危険信号が灯った。その信号は次第に大きくなり、身の危険を伝えるが、姫芽は恍惚の表情を浮かべてしまう。まるで覚せい剤のようね、と思った。

 

「オト、この路地を曲がったあたりにいるわ」

 

 振り向かずに言う。

 

「ここからは僕が前を歩くよ」

 

 オトと呼ばれた男の声はどこかあどけなかった。

 

「平気よ。でも、私に何かあったらあんたのせいよ? わかっているわね?」

 

 甘い花の香りが味を感じるほど強くなった。その実態を持った香り経験から生命の危機が来ることが容易に想像できた。そんなことはどうでもよかった。むしろ、オトが困るのならば死程度は望むところだった。

 

 姫芽は意地悪に速足で路地を曲がった。

 

 その後をオトが駆け足で追う。

 

なんとか曲がった先で追いついた。

 

 姫芽の目の前に涎を垂らした若い男が立っていた。

 

男の白いワイシャツに赤黒い汚れがこびりついている。二人は知る由もないが、それはさっきまで猫であったものの返り血だ。

 

 男は涎の垂れた口を歪めた。おそらく笑っているのだろう。

 

 姫芽の歩く速度は緩まない。

 

 男と距離が1mほどの場所で、オトがその間に割り込んだ。

 

 間一髪だった。

 

 姫芽には、男の持つ包丁がオトの体に深々と刺さったように見えた。しかし、血液が噴き出したり等、姫芽の望む光景にはならなかった。

 

次の瞬間、オトは何もない空を握りしめるように拳を作る。

 

「……失敗」姫芽はため息を吐いて、そして笑った。

 

 オトが何も握っていない拳を振りかぶり、男の顔の前で振り下ろした。

 

 するとなぜか、男の顔にまっすぐと裂け目ができ、新鮮な鮮血が飛び散った。そして、断末魔の叫び声を上げる男の胸に何もない手を“どん”とぶつけると、男は膝から崩れ落ち、叫び声は消え去った。

 

 月夜に映える真っ赤な鮮血だったが、それも姫芽の望むものではなかった。

 

「あーあ。また死ねなかった」

 

 姫芽の声にオトが振り向いた。

 

「そんなこと言わないで。僕が姫芽を救ってあげるからさ」

 

 姫芽はにこりと笑い、ざまーみろと舌を出した。

 

「嫌よ。ばーか」

 

 オトは悲しそうな顔をして、途方に暮れた。

 

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